隠れた名作アニメ:電脳コイル
徳間の電脳コイルのページ
このアニメ、いわば早すぎたために、みんなの目に留まらなかったといっていいと思う。
マトリックスのディストピア、VRのユートピア、ビックテックの監視資本主義を軽く超えているのだ。
ここで出てきているあっちの世界とは、AIによる意識の誕生とそれがすむVR世界系、しかも人間の意識も入れるという想像がつきにくい世界だということである。
いまこれから、僕らが、AIに意識が出来たら喜んで友達になりたいとかいうだろう。でも、意識ってそういうものなのだろうか?そもそも、生存のために他を引き離し、そして心の安定を得ることを求めてきたのが本当の精神の初めなのでは?
この物語を見るとまさにそう思いたくなる。
ディストピアかユートピアでない、現実っていうのは、もっとあいまいなものであることは全く当たり前なのに、!マークがつく部分だけ覚えてお金を払ってみてしまったのだ。
意識に関しては、実はAIよりももっと深い考察がもうある。精神医学だ。彼をこれと扱ってもいいのか、さえ考えるような行為に及ぶ病的意識体にすら人間はなれるし、そのために精神科医は、精神を覚醒したり、鈍麻したるする薬さえつかえてしまうのだ。永遠に病棟に閉じ込めることすらできるのである。
この作品は、VRが電脳メガネという簡単なデバイスで実現できたが、実はその裏の世界がAI意識と人間の意識世界とつながっている。
裏の世界へ入る方法が、道をパスワードのようにたどること(人生の道に似せている)である。道を通りパスワードを解くとあっちの世界(小学生の言うミチコさんの世界)に行ける。実はここは、意識体のいる世界であり、すべての人も体を抜けて意識としてそっちの世界に行けるようになっている。
表上の電脳メガネ世界は便利なので、多くの人が使っている。そして、それは発見されたもので、偶然の産物であって(現実ではAIの意識に通じるものがある)簡単に量産できてので、大きな企業が買って、世に売り出しはぼすべての人間が使っている。そして人々の所作が集められる。また、同時に車も自動運転になり、人をひくことはありえなくなったのである。
そして、AI意識と人間意識の通じる場所を見つけたエンジニアが現れる。利用しようとしたのは精神医学者「小此木先生」(小此木圭吾からもじったのは言うまでもないだろう)である。
サブヒロインのイサコは自分のせいで兄が意識不明になったと心を閉ざすが、その閉じた心の中へ入るために同じあっちの世界に行って、直すための両法を探ったのが「小此木先生」なのである。しかし、イサコが現実に戻った程度まで行ったが、あっちの世界でイサコをいやしたAI意識が消せない。それは一種のウイルスのように生き続け、表に呼び出せてしまう。
その危なさを知って、小此木先生と見つけたエンジニアがこの世界へ通じる事実を封じ、裏の世界を閉じ表の世界を利用するように動いた。そのために小此木先生は亡くなり。エンジニアは失踪した。
さて、ここで考察だが、自由に隠さず透明にすればすべてうまくいくという思い込みが我々にはある。(この自由の名のもとに、もっとも言葉を間違えて取られたのはアダムスミスの「見えざる(神の)手」だろう)
そのために、今の世はビックテックにほぼすべての人が従属されているといっていいかもしれない、すべてのデータを有用か無用か・人間の手に余してる部分まで拾って、利用規約違反すれすれで犯して集積し分析すれば、ある個人の未来が予想できる、そして行動心理学をもとに、お金をもらった企業のいいように<サブリミナルに>個人を行動修正する。そして売れるものと売れないものがきまる。大統領もお金次第で決まる。恐ろしい世の中なのだ。
しかし、このアニメで出てきた、電脳メガネを買ったメガマス社は、隠すことで人間の意識を操る方法を封じた小此木先生とエンジニアを擁護するのだ。日本企業の<世間によし>の心がここにはある。
これは現実の欧米やレッドチームのビックテックとは正反対である。金をとるのに自由でいいといえば、自由を自分の土俵を作ってまで自由だと言い張って相手を負かすという思いっきり反則でも、見た目は「自由だろ・透明だろ」と言い放つことで、ジャーナリストすら牛耳ってしまう自由が今の世の中だ。
その点で、日本の老舗企業は違っている。「人が集まって、知恵を集めナタをふるえば、いいものだけをとれる」なんて初めから思ってはいないのだ。良いと悪いは表裏一体、ナタで切れば、両面ができるのだから悪い方には何かを塗るなりして隠して補填しないと世の中に放っていいはずがないと考えるわけだ。
アニメでは、主人公のヤサコは、イサコに関係がなかった。しかし、級友のハラケンの前の女友達があっちの世界に入ってしまい、その際に、自動車事故にあう、起きるはずのない事故(あっちの世界は大人は知らない)なので、彼女のせいにされてしまうのある。ハラケンはそれを解明すべく、動くことで、主人公のヤサコとともにあっちの世界がどういうものなのかを知り、ハラケンはあっちに行った女友達の意識体と会う。そこで、ヤサコはその子から、ハラケンをお願いねと託されるのある。もちろん恋人としてである。
最後に、ヤサコは問題の現況であったAI意識が自分が生み出したものだとわかり、そしてそれをなくすことになる。あっちの世界に再度閉じ込められるよう仕向けられたイサコを助けるためにである。それを仕向けたのはかの失踪したエンジニアの息子、ネコメであった。かれは、父親のエンジニアが見つけたあっちの世界は有用だから、自由な透明性のある形でー世間の目にさらして、失踪したエンジニアである彼の父が偉大であることを示そうとしたのであった。(現代のビックテック的な考えである)
ヤサコは、問題のAI意識をなくし、ヤサコを助ける。ネコメは、弟に倒されてしまう。それは弟が父の伝言ー何かあったら兄の電脳メガネを壊せというーパスワードを教えていたからであった。結局、かのエンジニアも小此木先生も、早すぎた意志世界への介入技術を隠すのである。
さいごに、ハラケンとヤサコは思う、イサコが持ったAI意識(仮の兄)への治療の際の感情は何だったのか。それは、「恋慕」だという。(もちろんハラケンとヤサコの関係もそれによって自分たちの恋がある気づくのである)
こういう最後になってしまうと、お話として、電脳世界を締めくくったのは恋であると考え書かれてしまい、裏のあっちの世界のことや、例のエンジニア・小此木先生のAI意識と人間意識のあっちの世界への介入禁止やそれを行ったメガマス社の<世間によし>は、飛んでしまって、恋愛ものだと書かれてしまうのだ。これでは、本当の電脳世界の今とあるべき意識体へのアプローチへの、現実の行き過ぎた自由への警鐘を見逃してしまうのである。書評をかくのは、エンジニアではない文系のAIのことを何も知らない連中だからだ。
どうだろう、ちょっとは面白く感じれただろうか・・・
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