就職氷河期だったので、徹底的に絶望した結果、偉い金持ちよりも人生の濃さを選んで偉くはなろうと思いませんでした。

 大学3年のとき、バブルがはじけた。私は研究者を目指していた。

 量子論と化学が出会う、それだけでもうノーペル賞ものだ。物理と化学に間に張られた、とても細いロープ。こんなに大計算以外に第一原理主義計算が成り立たないとは・・・

 そして、自分の想像力のなさに引けを認めつつ、ポスドク問題を知りながら、修士(マスター)で研究を諦めた。

 徹底的な絶望感・・・・

あのころ、マスターやドクターですら、ヨイトマケになった。這いつくばるしかなかった。

 今ある現実に飛び込むしか無い・・・そうやって、資本主義の修正のために、「労働を商品にしない」という実際には無理な問題を、思いっきり抱えて労働省で戦ってみた。

 理系では全てありえない、経済と法律と政治の間で、現代の難題を抱えて見た

 うつ病になった・・・・

 これほどアホな、人生があろうか、実のところ、うまくいくことのない理念にすべてをぶつけてみた。結果がこれだ。

 「たとえ明日、世界が滅びようとも、私はリンゴの木を植える。」(マルティン・ルター)

 「明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ。」(マハトマ・ガンジー)

 「この世が終わるとき手に苗木を持つものあれば、それを大地に植えよ。」(ムハンマド)

 希望も絶望も超えたとき・・・
 今を中心として、この世の過去・現在・未来の全時間をYesということすらすべて脈絡の中にある。科学が語っていなかった、何かが私の中で輝いた。

 「朝に種をまき、夕べに手を休めるな
 うまくいくのは、あれなのか、これなのか
 あるいはそのいずれもなのか
 あなたはそれをしらないからである」 (コヘレトの言葉)

 コヘレトはすべてが絶望だと言っているように見えて、それでもなお、種をまけという。
 今日、種を蒔く・・・「今を生きる事によって責任を果たす。」
 全人類分の1人でも完全な絶望・鬱になっても。

 それでも生きる・・・

 「若者よ、あなたの若さを喜べ
 若き日にあなたの心を楽しませよ
 心のかなう道を、あなたの思うように歩め」 (コヘレトの言葉)

 そう、科学的万能な信念ではなく、「正しいとはなにか」・・・
 私の心は、ただ、正しく有りたかっただけなんだ。

 絶対的正義はない、とわいえ正義をなすために、法の番人はいる
 しかるに、法の番人のなんと、傷を負ったもの、そして負わせてたものの
 傷を引き受けるものか・・・

 「ほんとうの正義は絶対に格好良くなど無い。
  そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです。」(やなせたかし)

 そして鬱にまでなった、多大な人生経験も、因果によって成り立ったものだ。
 しかしコヘレトはいう。

「何事にも時があり
 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
 生まれる時があり、死ぬ時がある
 植える時があり、植えたものを抜く時がある
 殺す時があり、癒す時がある
 破壊する時があり、建てる時がある
 泣く時があり、笑う時がある
 嘆く時があり、踊る時がある
 石を放つ時があり、石を集める時がある
 抱擁の時があり、抱擁を遠ざける時がある
 求める時があり、失う時がある
 保つ時があり、放つ時がある
 裂く時があり、縫う時がある
 黙する時があり、語る時がある
 愛する時があり、憎む時がある
 戦いの時があり、平和の時がある。
 人が労苦してところでなんの益があろうか。
 神はすべてをときにかなって麗しく作り。
 永遠を人の心にに与えた。
 だが、神の行った業を始めから終りまで見極めることはできない。」

 神とは、私に言わせれば、自然そのものだ。我々は、この言葉という有限で語るために、物事の認知や存在論において、零度記号をつくり、そしてその反動で永遠という言葉ももった。永遠の仲間である無限は、世の科学のすべてを潤した。そして、無限の障壁ですら、物質の波としての存在を邪魔できないという結果にすらなった。
 我々は、我々の脳で考えているから、脳がわかれば我々がすべてわかると錯覚している。脳のことを考える脳のことを、どの脳が考えようものか・・・
 そして、この理解の無限は登場する。
 だから、無限であるかぎり、始めから終りまで見極めることはできないのだ。

 コヘレトの言うの肝心なのは、わからぬことは、たとえ無限を定義できたところで、確かめるすべがないため、わからないということを認めるということだ。

 更に言う

 「空である日に、私はすべてを見た。
  義のゆえに滅びる
  正しきものがおり、
  悪のゆえに生きながらえる
  悪しき物がいる」 (コヘレトの言葉)

 若くして正しいとは何かを全力で求めた日々があった。そして、少しの知恵はついたし、人生もダイナミックものになってしまった。しかし、更に聞いてみる。

 「知恵は知恵あるものを力づけ
  街にいる十人の権力者よりも強くする。
  地上には
  罪を侵さずに
  善のみを行う正しきものはいない。
  人が語る言葉に
  いちいち心を留めるな
  そうすればあなたの僕の言葉に
  耳を貸すこともない
  あなた自身が
  何度も他人を呪ったことを
  心は知ってるはずだ。」 (コヘレトの言葉)

  そうなのだ、絶望でなく鬱になったのは、悪しき言葉にいちいち耳を貸したからなのだ
 そして、私はすべてを正しさに捧げたとは当たり前に言えない、そう私もまた、
 何度も他人を呪ったことを心は知っている。

  生きること、行きていくことは、すでに言葉では組み尽くせないことを、
 当たり前に思うべきである。言葉があるのはそれ故なのだから。
 だから、苦しみも喜びも心すべてを埋め尽くすものではないことを、
 われわれはもう知っている。
 例えば新製品の高い品も数年後には陳腐化し捨てる。
 われわれはもう、ごみになるものを買っていることを知っているんだ。

 わかってるんだ、我々は、コヘレトの言葉を今風に変えればきっとこうなる。
「悪事に対して
 判決が速やかにくだされないため
 人達の心は悪をなそうという思いに満ちる。
 百度も悪を重ねながら生きながらえる罪人がいる
 しかし、誰もが知っている
 社会を恐れる人々には社会を恐れるからこそ幸せがあると」
 

日記

Posted by masterkudo